蟹工船とは

image 小林多喜二原作「蟹工船」とは昭和4年に刊行された日本プロレタリア文学を代表する作品。昭和29年に文庫化され、これまで年5,000部が売れ続けるロングセラーだったが今年に入ってからは急に売れ始め、急遽4月に7000部を増刷。それでも追いつかず5万部を増刷した。ブームの背景には「ワーキングプア」と呼ばれる人達からの共感があるようだ。
ブームのきっかけは毎日新聞に掲載された、作家の高橋源一郎さんと雨宮処凛さんの格差社会をめぐる対談だった。 雨宮さんが「蟹工船を読んで今のフリーターと状況が似ている」と発言。これに高橋さんが「教えている大学のゼミでも読んだ。意外なことに学生の反応は、よくわかるというものだった」と応じる、内容。
この対談後東京・上野の大型書店が、平積みにしてポップやパネルを使って販促をかけると週に80冊も売れるヒットとなり、他の大型書店も次々と追従。ブームに火がつくこととなる。

スポンサードリンク

スポンサードリンク

「蟹工船」のあらすじ

image カムチャツカの沖で蟹を獲りそれを缶詰まで加工する蟹工船「博光丸」。それは様々な出自の出稼ぎ労働者を安い賃金で酷使し、高価な蟹の缶詰を生産する海上の閉鎖空間であり、彼らは自分たちの労働の結果、高価な製品を生産しているにも関わらず、蟹工船の船主である大会社の資本家達に不当に搾取されていた。
情け知らずの監督者である浅川は労働者達を人間扱いせず、彼ら懲罰と言う名の暴力や虐待、過労と脚気で次々に倒れていく。始めのうちは仕方がないとあきらめるものもあったが、やがて労働者達は人間的な待遇を求めて指導者の下団結してストライキに踏み切る。しかし、経営側がこの事態を容認するはずはなく、帝国海軍が介入して指導者達は検挙される。
国民を守ってくれると信じていた軍が資本家の側についた事で目覚めた労働者達は再び闘争に立ち上がっていく。

小林多喜二の生涯

小林多喜二(こばやしたきじ、1903〜1933)は、日本のプロレタリア文学の代表的な作家・小説家。秋田県出身。4歳のときに北海道・小樽に移住。小樽商業学校から小樽高等商業学校へ進学。在学中から創作活動を開始。文芸誌などへの投稿を始める。このころから共産党運動への参加も始めている。
卒業後、北海道拓殖銀行に勤務。在学中に蟹工船を「戦旗」に発表。一躍プロレタリア文学の旗手として注目を集めるが、当時の特高警察からも要注意人物としてマークされ始める。1929年に発表した「不在地主」が原因で銀行を解雇され、翌年東京に移住。日本プロレタリア作家同盟書記長となる。1930年大阪で日本共産党への財政援助の疑惑で逮捕され、6月に一旦釈放された。
1931年非合法の日本共産党に入党、1932年の危険思想取締りを機に地下活動に入る。自らの地下活動の体験を下に「党生活者」を執筆。
1933年2月、共産党に潜伏していた特高警察のスパイの手引きにより逮捕され、同日築地警察署の中で拷問的な取調べの末、絶命いた。

日本共産党「志位和夫委員長」談話

「蟹工船ブーム」に大きな期待を寄せているのが、小林多喜二作品はほとんど読んだという日本共産党、志位委員長。同氏の談話。「小林多喜二は日本共産党員として、当時の戦略戦争に命がけで反対した。多喜二の生涯は日本共産党とまさに不可分に結びついた生涯。」
蟹工船ブームは小泉政権以来、もてはやされてきた新自由主義的な政策で格差社会の底辺に追いやられた若者たちの反逆の意思表示だという。
「新自由主義、市場原理主義が国民の暮らしと両立しなくなってきた、若者の未来と両立しなくなってきた。むき出しの形で野蛮な搾取が社会に横行するようになってきた中での蟹工船への共鳴ですから、今の社会を元から変えようという流れにつながってくる。」
日本の左翼は70年学生運動の挫折以降勢いを失ってきた。しかし、2008年の蟹工船ブームは左翼が若く貧しい世代を引き付けたあの輝きを再び取り戻していくのであるのか。

蟹工船ブーム